my story

生まれて1年と半年ごろ

ストーリー1の画像

初めて僕が難聴であることを知ったのは1歳半の時でした。

親が僕の名前を呼んでも反応しなかったり、言語を習得するスピードが他の子供に比べ、遅いことに違和感を感じ、検査を受けさせられました。その結果、耳が聞こえないことが判明しました。

その時言われた障害名が”感音性難聴“でした。原因は未だに不明です。
もしかすると乳児の時に高熱を出したことが原因なのでは?と医者に告げられたと親は言っていました。

親は当時のことを振り返ってみると、「ショックだった。障害を抱えて産まれたのだから。でも悩んでも仕方ない、本気で頑張ろう」と 決意したと言っていました。
ここから親と二人三脚で音を習得するための生活が始まりました。

未来を決意した3歳頃

ストーリー2の画像

3歳の時に、千葉県立千葉ろう学校に通い始めました。

初めて僕と同じ耳が聞こえない他の子ども達と出会い、一緒に過ごし始めました。同時に地元の保育園にも通っていました。保育園に通ったのは健常者とのコミュニケーションに慣れるためです。

この頃から、僕は人が笑っている所を見ることに幸せを覚え、笑顔にさせることが好きで、いつも面白い事を言ったり、面白いことをやったりして、常に周りを笑顔にしようとしてきました。
その時に親に将来はお笑い芸人だね、と言われ、将来の夢はお笑い芸人になりたい。と幼いながらに思っていました。

母親との訓練の道のり

3歳の頃から母とマンツーマンで言葉の音を習得する訓練を始めました。

具体的な内容は、教材ワークに付属されていたCDを繰り返し、繰り返し聞いてみたり、音声ゲームなどをしていました。その他にも親が生活の中で発生する音を文字にして、教えてくれました。

例えばヘリコプターは「ぶおおおおん」、車は「びゅーん」電車は「がたんごとん」雷は「ごろごろごろ」ドアをノックする音は「どんどん」などを教えてくれました。

私の人生を変えるものになりました。

ストーリー3の画像

家から徒歩2分の地元の小学校に入学しました。

ちなみに聴覚障がい者が入学することを受け入れたことは初めての試みだったそうです。その頃の僕は身体が生まれつき弱く、喘息持ちでいじめられっ子でした。なので入学と同時に、祖母の知り合いの高校の先生に紹介され、少林寺拳法を始めました。 9歳の頃に地元の少年野球チームにも入りました。同時に5年間習っていたピアノをやめました。この時始めた野球と少林寺拳法が後に私の人生を変える物になりました。

11歳の頃には、野球のお陰で身体が丈夫になり、体力もついてきました。この頃、初めて僕が記録を残したのです。それは町内の駅伝での出来事です。2年連続で区間賞を取り、6年生で区間新記録を出しました。(実は今もまだ記録保持者です。)

他にも少林寺拳法でも記録を残しました。小学校6年生、中学校1年生の時に個人戦と団体戦で千葉県大会を2年連続で優勝し全国大会へ駒を進めることができました。その時のことが新聞に載り、自分が有名人になったんだと感じたときの高揚感は忘れられません。

耳が聞こえなくても関係ないんだ、本当に頑張ってよかった。何より、親や周りが一緒になって喜んでくれたことが一番うれしかったです。

中学時代~人生のターニングポイント

ストーリー4の画像

僕は中学では野球部に入りました。厳しい先輩の指導を受けながら辛い練習に耐え、挨拶とマナーを徹底的に体に教えこまれました。

この頃は思春期で、体が大きくなり、心が繊細になる時期で、僕の障害のことや喋り方など、馬鹿にする人が増え、許せなくて、何か言われるたびに激しく怒り、しょっちゅう喧嘩をするようになりました。先輩に対しても失礼な態度を取るようになってしまいました。

その頃は僕自身の障害を認められない。周りの目線も気になり、被害妄想も激しく、何度も喧嘩をしてしまいクラスからも孤立するようになってしまいました。

でも野球部だけは僕の居場所があるから大丈夫だと思っていました。でも、現実は違いました。ミーティングの時、わざと僕にだけ分からないようにみんなが口を隠して話すようになったのです。おかしいと思い、友達に聞くと野球部でも僕の事を孤立させようとしていたことが分かりました。
野球部にだけは居場所がある!と思っていたのに信じられませんでした。

初めて味わった孤独がとても苦しかったです。
周りの人のことが信じられなくなり、その状況に耐えられず、突然学校を飛び出し、泣きながら家に帰りました。
部屋に閉じこもり、もう死にたい。僕は何のために生まれて来たのだろう。生きる意味がわからない。と思うようになってしまい、

「なんで僕を産んだんだ。」

と、親に言おうとしたが言えなかった。僕が何回も喧嘩して、その度に親が学校に行って謝っている姿を何度も何度も見てしまったから。

でも、僕の様子を察した母が部屋に入り、僕は何も話してないのにこんな言葉をかけてくれたのです。

「何があっても家族はみんな味方だし、あなたはうちの息子だから」

僕はたまっていたことが爆発し、泣いてしまいました。今まであったこと、されたこと、苦しかったこと、何もかも全てを打ち明けました。そのあと、学校の先生にも話をし、その先生がチームメイトに話しをしてくれました。同時に今まで僕がしたことを改めて反省し、少しずつチームメイトのみんなと距離を縮めていきました。

この時、『このままじゃいけない。変わろう。親を悲しませないようにしよう。』と決意しました。

僕には人生において大切な事を教えてくれたかけがえの無い友人が3人います。

1人目は、生まれてはじめての友人で、幼馴染でもあるYさん。彼は『本当の強さ』を教えてくれました。
僕は、この時少林寺憲法をやっていたので僕自身、腕に自信があり、喧嘩が強いやつが1番だと思っていた。

幼馴染のY君は、地元でもかなり有名な不良で学校の中でも比較的目立っていました。

周りにはいつもY君を慕っている仲間がいたので僕は『喧嘩が強いやつには仲間が集まるんだな。』と考えていました。

だから、何かあるたびに激しく怒り、喧嘩をしてしまい、相手を傷つけてばかりでした。その結果は孤独しかありませんでした。

本当の強さとは喧嘩で勝つことじゃない。力が強いから仲間ができるんじゃない。誰かのために戦うことが本当の強さだった。いつだって幼馴染は友達のために戦っていた。僕は自分のことでしか戦ってなかったのだ。

そのことに気づかせてくれたのです。

2人目は、中学2年から大学までずっと好きだったRさん。彼女は『笑顔の大切さ』を教えてくれました。

僕が孤立させられていた頃、解決のためにチームメイトと話し合いをしたが、すぐに距離を縮めることはできず、まだ学校に行きたくなかった時期がありました。周りの目線も気になるし、行ったところで話しかけてくれる友達もいない。そんな空間が居心地が悪くて行く気になれませんでした。
でもその中で唯一、たった1人だけ僕に普通に接してくれていたのがRさんでした。

その子は笑いのツボが凄く浅い子で、ちょっとしたことでも大笑いしてしまう、僕が苦手なタイプでした。

でも、学校に行くと普通に話しかけてきてくれて、いつもその子が笑ってくれている、

それが一緒にいてとても面白く、何故か僕自身も笑顔になっていました。

いつの間にかあんなに嫌だった学校が心地良い居場所になっていました。

その人は、中学の時に初めて好きになった人であり、大学まで本気でずっと片思いだった人です。

3人目は、クラスの中で1番の理解者であり、かけがえのない存在のTくん。彼は、『音楽の楽しさ』を教えてくれた人です。

僕は小さい頃から音感を身につける為にピアノを習っていました。その頃の影響もあり、音楽が好きでした。

しかし大きくなるにつれ、嫌いになっていきました。一番大きい理由は音楽の授業のとき、音が満足に拾えず、周りについていけないからです。

僕だけ孤立している感じがしました。

ピアニカやリコーダーを吹いても僕だけ遅れる。音程もズレる。歌もそう。

だから中学の合唱コンクールも2年生までずっと口パク(※2)で誤魔化しながら歌っているふりをしていました。(※2 口パク=声を発さないで口の形だけ動かすこと)

でも、三年生の最後のコンクールの時、Tくんが最後だから一緒に歌おう。俺がサポートするから。と言ってずっと付きっきりで教えてくれました。

今、ここを歌っているよと指で指してくれたり、肩を叩きながらテンポを教えてくれたりしていました。繰り返し練習をしていくうちに、もう一度音楽が好きになっていき、この時はただただ、楽しかったです。

そして迎えた合唱コンクール。賞は取れなかったけど、みんなと一丸になって歌えた達成感が物凄く大きく、音楽ってこんなに素晴らしいんだ。歌うことが下手くそでも耳が聞こえなくても関係ない。体全体で音を感じて、楽しむことが大切なのだと気づくことができました。

この三人から教わったことが今の僕に繋がっています。

あの時は本当に辛かったけれど、経験はいつかの僕のためにあるのだなと感じた。

僕は思いました。経験することに無駄なことは一つもない。

高校時代~障害が生む大きな壁

高校時代は、中学生の時のトラウマがまだ完全に克服しきれず、人付き合いを自分から避けたり、人前に立つのが苦手でずっと隅っこにいるような、おとなしい存在でした。2年半取り組んできた高校野球生活は辛いことが多かったように思います。

中学の時の軟式と違い、打球音が聞こえたら瞬時に飛距離など判断してボールを取りに行かなければいけないし、ノックの練習の時は監督や内野の声が聞こえず、自分の判断でプレーをしなければいけませんでした。

入部したばかりのころ、小学生のときから一緒にやってきた仲間がトラブルを起こしてしまい、学校や部活に来なくなってしまいました。家まで行って、なんとか部活に戻るよう説得をしていた頃、だんだん僕も辞めたくなってしまいました。チームメイトから喋り方をバカにされるし、コミュニケーションもうまくいかず悩んでいた時期だったからです。

中学生でも高校生でも障がいがあることがとても大きな壁になりました。コミュニケーションが取れないことを理解してもらえない。それが大きな悩みになり、野球を辞めようと思いました。
このことを親に打ち明け、学校の先生や監督に相談もしました。本音は野球をやりたい。周りの人に聴覚障がいのことを理解してほしかったと想いを伝え、クラスメイトやチームメイトに伝えてもらいました。

2年半の高校生活が終わり、進路を決めるときがやってきました。僕は鍼灸マッサージ師になろうと思い、都内にある鍼灸マッサージの専門学校を希望しました。理由は昔から祖父母や親、先輩やチームメイトにマッサージをよくしてあげていて、評判が良く腕に自信があったからです。もう1つは高校1年の秋に、練習中に足の筋肉を切る大怪我をしてしまい、その時に鍼灸マッサージや整体で助けてもらったからです。

これらがきっかけで、人を元気にするお手伝いがしたいと思うようになりました。

しかし、現実はそんなに甘くありませんでした。

『耳が聴こえない』ということが理由で落とされてしまったのです。

鍼灸マッサージはコミュニケーションが大事で、患者さんの声を聞かなければならないから、耳が聞こえない人は無理だ言われました。現実はとても厳しく、天から地に落とされるぐらいショックでした。将来どうしよう。何の仕事をしようか、と悩んでいた時に母がニュースでやってた映像を録画して見せてくれました。

手話ダンサーとの出会い

ストーリー5の画像

それは、【手話を使って踊るダンサー】についての特集でした。

そのダンスグループは、HANDSIGINという、2005年に結成した5人組のボーカル&手話パフォーマンスグループ。
このグループは手話を交えた独自の表現方法でメッセージを届け、音楽とパフォーマンスで全ての人たちが楽しめる空間を追求し続けています。

この映像を見て、僕は凄く興味を持ちました。

きいろぐみの舞台へ

ストーリー6の画像

ホームページで調べてみると、HANDSIGINに手話を指導している【手話エンターテイメント集団きいろぐみ】があることを知り、気になり、すぐに都内で行われた舞台を観に行きました。
その時、体に電撃が流れたのです。
聴覚障害者も健聴者も手話を使って体全体で表現しながら、楽しそうに歌ってるということに対し、衝撃を受けました。

同時にこれが自分の本当にやりたかった事かもしれない。この人たちと一緒にやりたい、聴こえないことの理解を広めたい。そう考えた僕は、きいろぐみのスタッフにすぐアポを取り、話をさせてもらいました。

話を聞いてもらい、きいろぐみのスタッフをさせてもらえることになりました。

その後に夏に行われた一般オーディションに参加しましたが、当時の僕は手話を覚えたばかりで満足に使いこなせず、セリフもなかなか覚えられなくて怒られてばかりでした。

元々集団行動や人前に立つのが苦手だった僕はここは合わないのではないかと思うようになり、やる気が少しずつ薄れていったのです。
理由は、僕自身の中にあるアイデンティティと手話を使うことや通訳をしてもらうことに後ろめたさがあり、健常者と同じでいたいというプライドがありました。

僕自身、聴こえないということを認め切れなかった、コミュニケーションの壁のない世界にやっと入れたはずなのに手話がわからない。練習についていけない、いろいろな劣等感や葛藤がありました。

それでもここで逃げるのはなんか違うし、こんな甘ったれじゃ駄目だと、僕自身に鞭を打ち、ユーチューブで、世界中のパフォーマーの表現力を見て勉強をしました。

そんな中、大道芸人とクラウンの映像が目にとまりました。セリフのあるきいろぐみとは違い、サイレントパフォーマンスをやるクラウンの魅力に惹かれ、クラウンとして活動をしたいと思うようになったのです。

言葉の壁を超えたサイレントコメディーパフォーマンスで人を楽しませることができる。小さい頃から人を笑わせる事が好きだった僕にぴったりだと思いました。

きいろぐみをくびになる

ストーリー7の画像

最初は、きいろぐみで活動したいという想いを持って参加しましたが、
公演当日に最初は僕の出る予定のシーンだったが、セリフを覚えきれないからと外されたエンディングシーンに、役者の先輩と自分の判断で勝手に出てしまい、危険な行動として怒られてしまいました。舞台というものは裏で照明さんと事前確認があり、入念に確認を行った上で成り立つものだからです。

この時の自分は、代表に反発したいのと家族が見に来ていて、自分だけ出てないってのは格好悪いからと言う焦りもあり、身勝手な行動を起こしてしまいました。裏でスタッフに止められたが聞く耳を持たず舞台に上がったのです。

このような行動を起こし、次回出演する予定だったテーマパークでのイベントにも出ることができず、この公演がきいろぐみのキャストとして最後になってしまいました。

まだ19歳だった自分は若かったし、甘かった。そして考え方が幼稚だった。今、考えれば、あの頃きいろぐみの人たちが僕の事を外したこと、厳しくしたことは全て僕のためであり、プロフェッショナルとして活動していく上で大切なことでした。当時はそれに気づけませんでした。数年経ってやっと代表が僕に伝えたかったことや僕がやってしまったことの重要性に気づいたのです。

この経験がきっかけで道化師として活動しようと決意しました。

大学時代~道化師としての修行

きいろぐみから外されたあと、道化師として活動を始めるためにマジックやジャグリングの練習をひたすらしていました。

しかし、一番大事なことができませんでした。それは人前に立つ勇気が無かったのです。僕自身に自信が持てず、怖かった。過去のトラウマが心に深く残っていました。

そんなある日、僕に転機が訪れてきました。地元の友人と飲んでいた時のことです。成人式の話になり、友人が二次会で幹事を務めるので、その時にパフォーマンスをやって欲しいとお願いされました。僕は成人式に参加する気がなく、欠席に印を付けていました。仲のいい人がいても今のどうしようも無い中途半端なまま、参加することが嫌だったし、同時に、人と会うのも話すのも怖かったから。だから出席するつもりは最初からありませんでした。でも、ここで怖がっていたら前には進めないだろうと思い、依頼を受けることにしました。

これが僕の道化師としてのデビューでした。そしてそのきっかけになり背中を押してくれた友人に感謝をしました。

初デビュー&成人式

ストーリー8の画像

成人式の二次会でパフォーマンスを終えた後、面白かったよ。楽しかったよ。びっくりしたよ。と恩師やクラスメイトのみんなが言ってくれました。

中学時代を振り帰ってみてもそんな風に言ってもらえるとは思っていなかったので、その言葉を聞けたときはとても嬉しかったし、少しだけ自信がつきました。

それがきっかけで、色んなイベントに出てみようと思うようになり始めました。

初めて道化師になってから僕は変わった

大学生時代は、僕と同じ境遇の仲間と出会い、世界がどんどん広がっていきました。イベントをたくさん企画して交流の場を増やしていきました。コミュニケーションをとり、積極的に人前にガンガンでることで、人見知りや対人恐怖症を克服していきました。
仲間のいるところは心のよりどころであり、本当の自分をさらけだせる場所でした。

最初の一歩を踏み出さなければ何も始まらない。野球もサッカーも一振り一蹴りが無ければボールにも当たらないし、シュートだってできない。

社会人時代~僕になにができるのか

大学で進路を決める頃、パフォーマーの道に進もうと思ったが、生活も安定できないし、パフォーマンスだけで食っていけるという保証はどこにもない。だから、まずは社会勉強ということで就職を決めました。そこで社会の厳しさを知り、改めて僕自身の甘さを思い知らされました。

僕は人事部の採用担当や全社員の健康管理を任されました。新入社員唯一の人事部であり、同期の状況や状態が一目で分かる立場にいました。

その時、勤務時間を遥かに超えていたり、連続勤務で働きすぎている同期の姿が見えてしまい、いつも心配でした。だから個人的に話したり飲みに行ったりして愚痴を聞いていましたが、愚痴を聞くだけで何もしてあげられないことがすごくもどかしかった。だからこそ、人の為に何かをしてあげられる人になりたいと思っていました。

社会人時代~もどかしさを糧に

ストーリー9の画像

僕はいつも悩みを相談されるが、ただ話しを聞くだけで何もできないことが多い。いつも無力な自分が悔しかった。

そこで、またターニングポイントがおとずれました。人生を大きく変えてくれることになった、ロボットのぞみさんとの出会いです。社会人2年目の時に、仕事をしながらRPG特殊技術スクールに通うことにしました。RPG特殊技術スクールはエンターテイメント心理療法が学べる全国随一の専門学校です。

☆エンターテイメント心理療法とは
「心理療法(セラピー)の技術+パフォーマンスの技術」この二つを組み合わせた特殊技術心理療法士です。
このエンターテイメント心理療法では、視覚・聴覚・感覚のエンターテイメント技術を使いラポール(信頼)の形成を行い、心理学とパフォーマンスの力で人の心の傷を治したり、心にいい影響を与えていきます。

〈視覚〉はパントマイムの技術を使います。
〈感覚〉はジャグリングの技術を使います。
〈聴覚〉はビートボックスの技術を使います。

社会人時代~もどかしさを糧に

ストーリー10の画像

これが本当にやりたかったことだと直感で感じ、親に相談して、パフォーマンスと心理療法を通して人々に癒しを与える”セラピーパフォーマー”の資格を取るために、この学校に入ることにしました。最初は仕事と両立しながら通っていましたが、精神面にも体力面にもキツく、そして中途半端にするのも嫌だと思い、自分のやりたい事に専念するために会社を退職しました。会社を辞めてからは、派遣のバイトや夜勤の仕事などをやりながらRPGスクールに通う日々でした。ご飯を食べるために、デパートの試食コーナーに何度も通ったり白米だけの生活をしたりしていた時もありました。

でも、『夢』があったから。『応援してくれる人』という存在があったから。

だから全然苦しく無かったです。マイナスに考えないように嘘でもいいからポジティブな気持ちでいるように心がけていたら、本当にポジティブに考えられるようになりました。常に「迫る難題さえもユーモアに変えて笑い飛ばす」ことだけを考えると怖いものはない。

考え方を違った視点で捉えれば何だって楽しくなります。

スクールで学んだこと

学長のロボットのぞみさんを始め、各分野の講師の皆様は、僕の耳のことを凄く理解してくれ、最後までずっと歩み寄ってくれました。その真っすぐな気持ちがとても心地よく嬉しかったです。

この学校ではエンターテイナーとして大切なこと。そして、お客様を笑顔にさせるためには。人の心を癒すためには何が大切なのかを学ぶ事ができました。

僕は小さい時から、
お笑い芸人・
プロ野球選手・
鍼灸マッサージ師
セラピスト…。

いろんな夢を持ち続けてきましたが、今の僕が1番やりたいことはセラピーパフォーマーとして色々な方々を笑顔にさせていくことです。
これはなりたかったものが全て繋がっています。

セラピーパフォーマーなら

お笑い芸人でなくてもパフォーマンスで人を笑わせられる。
セラピストじゃなくてもセラピーで選手達のメンタルのケアが出来る。

セラピーパフォーマーとして人の悩みや不調を改善させる手助けをしていきたいです。

これが、僕の天職だ。と確信が持てるように日々精進していきたいと思っています。

自分の人生を振り返ってみて

僕は人生で2つの世界を経験しました。1つは”聞こえる世界”、そしてもう1つは”聞こえない世界”

最初は、健常者の世界でコミュニケーションの壁や障害に対する周囲や、自らの耳に対する不理解でもがき苦しみ、苦悩し、行き着いた答えが”健常者”として生きること。

自分のことを障がい者と思いながら生きていると、周りの人が僕のことを指差し、馬鹿にする。じゃあいっそのこと健常者として生きようと決めた時期もありました。

誰かと話をしている時も、みんなといる時も、聞こえていないのに話の内容を分かっているふり。

理解しているふり。

聴こえているふり。

周囲の雰囲気や空気に合わせて感情を変化させていました。楽しいふりをしていても、僕の心の深くは孤独や悲しみでいっぱいでした。広い世界に一人、僕だけが取り残されているような錯覚です。

僕はいつもハンディのある存在として扱われていました。いつだってそう。僕の意思や希望は聞こえる世界では、いつも”できないと思われる”、分厚い壁に阻まれてしまうのです。小さい頃から顔には出していませんが、心のどこかで健常者を羨み、そして憎しんでいました。

僕自身の存在、アイデンティティに疑問を持っていました。

“僕は何者なのだろう?”

中途半端に2つの世界を経験しているからこその苦悩です。

そして、長い時間もがき苦しみながら手探りで生きてきたその先で手話に出会い、多くの仲間たちに出会い、そして夢が見つかったのです。

僕が生まれた意味

この時気づいたことは、僕は”聴こえる世界”と”聞こえない世界”どちらの世界にも生きていて、
それぞれの世界を繋ぐ架け橋になれること。これが僕自身が生まれてきた意味であり、神さまから与えられた試練だと思いました。

だって人と同じじゃなくていい。人に迷惑をかけなければ好きなことをやったっていい。
自分の人生の主人公は、僕自身1人なのだから、好きなように自分の人生の華を咲かせるために思いっきり楽しんで生きたっていい。
僕は1人なんかじゃない。

みんなに伝えたいこと

一番大事なことは、ストレスを溜めない心の余裕を持つ事です。

僕はどんな人に対しても、優しすぎてしまうし、気を遣ってしまう。嫌なこともはっきり嫌と言えず我慢ばかりしてしまう人間でした。それが引き金になり、ストレスを溜め、大学生4年の時は顔面麻痺になり、社会人2年目はうつ病を経験しました。

ストレスは溜め込まず、自分の事を大事にする事。次に他の人を大事にする。自分を甘やかすことと、自分を大事にすることは違うと思います。自分を大事にできない人が他の人を笑わせられる訳はないし、助けられない。自分が体を壊したら本末転倒です。

私たちには自分が思っている以上に大きな可能性がありますが、目に見えない力によって縛られています。
その正体は、「自分には無理だ」という思考法。

自分の可能性を否定すると、疑い固まった思いが心の深い部分に横たわって信念に近いものになります。

ユーモアの力はそのような自分を苦しめるマイナス思考を消去する心の消しゴムのような働きをします。

どんなに辛いことがあっても壁にぶち当たってもユーモアに変えて一緒に笑い飛ばしましょう。

それがストレスを溜めずに上手く生きていくコツだと思います。

上矢印アイコン ページ top